訪問看護に花は咲く37

10p-2この秋も、看護学生さんが訪問看護の実習にやってきます。

当事業所では、看護学校二校の実習受け入れをしており、約三週間の実習期間に学生さんが二人一組になって臨みます。

自分が看護学生の頃は、「在宅看護論」という教科自体がなく、訪問看護の実習期間もたった一週間と短いものでした。しかし現在では、実習前に指導者が受け持ち利用者さんを決め、オリエンテーションの後、利用者さんのお宅にお邪魔して、在宅療養の実際を見せていただきます。そこから受け持ち利用者さんの看護計画を立案し、訪問時に計画に沿った実践を可能な範囲で行っていくことが必須となっています。実習期間のうちに一日は、ケアマネジャーさんに同行し、その役割を学びます。

今や、看護学生さんの年齢層も実に幅広く、高卒者を中心に、大卒者、社会人経験者、子育て真っ最中のお母さんもおられます。

学生さんの性格も実に様々で、笑顔が多くハキハキとし、ムードメーカーになるようなタイプや、知識が豊富で勉強熱心だけど、シャイでコミュニケーションが少し苦手なタイプなど…。連日の実習に加え、帰宅しても実習記録に追われるため、睡眠不足な学生さんも多いようですが、実習に来た学生さんたちは、将来どんなナースになるんだろう… 指導者は、 終了時にその実習が合格か否かの評価を迫られることもあり、つい未来の彼等の姿に思いを馳せてしまうのです。

訪問看護のことをどこまで知り、理解してもらえばよいか…と考え出すと難しく、肩に力が入ってしまいます。しかし、学生さんからの感想や質問を通して、逆にこちらにも新たな学びがあったり、はつらつとした若い人が訪問してくるだけで、表情や言動がいきいきとしてこられる利用者さんを目にしたりすると、「教える」だけではなく、「一緒に勉強する」という姿勢で関わっていくことが大切なのだと気付かされます。

…今度の学生さんはどんな人たちかなぁ。。

訪問看護に花は咲く36

「昔戦争があった…」

hu8月15日は71回目の終戦の日でした。

訪問している方々には戦争体験をされた方もおられます。
「衛生兵で中国に渡って、歩いてインドまで行った」
「買い出しに行った先で米軍機に狙撃され、そのまま地面に倒れ込んだ。死んだかと思った」
「戦争中に満州に渡って終戦で帰国した。駅で座りこんでいるとあまりにもみすぼらしく思われたのか、知らない人がおにぎりをくれた」
「夫が徴兵されて集合場所までそっとついて行った。電信柱の影から見た姿が最後。その時はお腹に子どもがいると知らなくて、夫は自分に子どもがいることを知らないまま死んで行った」などお話しを伺うことがあります。

私の親は終戦時3歳、ほとんど戦争の記憶はありません。
身内に戦死者はなく、戦争の話しはどこか遠いところのような感じがしていました。
私が20歳になるまでは…

母方の祖父が徴兵され、遠い南方戦線で亡くなったことを知りました。
その島の部隊1500人中生き残ったのはわずか12人。
戦死通知だけで髪の毛1本も戻ってこなかったそうです。
母は1歳未満で別れた父の記憶はありません。
戦後祖母は再婚したので、私はその事実を知りませんでした。
この話しをしてくれた時の母は、これまで見たこともない辛そうな顔でした。
戦争の記憶がなくても、戦争はいつまでも人を苦しめるのだとその時初めて感じました。

憲法改正の動きや安保法制施行など、きな臭い現在を「まるで戦前のようだ」と言う声を聞きます。
祖父の命日と終戦の日に、今を絶対に戦前にしてはならないと誓いました。

訪問看護に花は咲く36

201608-d今回ご紹介するのは、北区にお住まいのAさん96歳です。ご主人を25歳の時に亡くされ現在1人暮らしです。当時は3歳と1歳に満たないお子様が2人おられ、どうやって暮らして行こうか途方にくれたそうです。そこでAさんは大学に行き、大学院まで進まれ臨床心理士の資格を取られました。そして、90歳まで臨床心理士として働いて来られました。お子様も大学まで進まれ一人はお医者様をしておられます。当時を振り返ってみると「必死で頑張った、母も居てくれたのでここまで来られたのよ」と言われていました。

元来明るく前向きなAさんから愚痴は聞いたことはありません。訪問するといつも笑顔で迎えて下さいます。ここまで頑張ってこられたお話を聴くと頭が下がる思いです。時々、Aさんに悩みを聞いて貰う事があります。最近、認知症も出てきており同じ事ばかり話されますが、一生懸命アドバイスして下さいます。Aさんのお話を聞いて、子育ても介護も誰かの支援が必要なのだと思いました。これからもご利用者様、ご家族様の信頼関係を大切にして支援して行こうと思っています。