寄り添うこと・・・(6)

ケアマネジャーとして10年以上が経過しました。その間私自身の生活には随分変化がありました。高齢の利用者さんの中にも大きな変化を迎える方がいます。その一つがつれあいの死です。
S夫妻は要支援状態であった時から担当しています。妻が要介護状態となり、3か月に1度の訪問から毎月訪問となって、話す機会も増えました。訪問するとお二人が競うように話され、両方の耳で別々の事を聞くような状況でした。また小さなことで口げんかをされることもしょっちゅうで、1階と2階で別々に過ごされて口もきかないという冷戦状態だったこともあります。80台後半と90台で、長年連れ添ってきても分かりあえないことがあるのだなあと感じたものです。それが昨年12月に突然夫が自宅で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

妻の精神的な落ち込みは想像以上でしたが、近くにいる子供さんたちがそれぞれ毎日訪問したり、泊まったりして支えました。ようやく1か月を過ぎたころに家に呼ばれました。長女さんが同席されていましたが、「私たちもこれからも助けていきたいが、母親も早く立ち直ってほしい。同じ年代の人たちともっと積極的に関わってほしい」とデイサービスの見学を希望されました。少しやつれた本人は「喧嘩ばっかりしてたけど、お父ちゃんは真面目な人やった。私のことをずっと考えてくれてたし、私はお父ちゃんに支えられてきたんや。」と泣いておられました。

私の父親も7年前の12月に突然自宅で亡くなりました。その時の喪失感は想像以上でしたが、私にはやるべき仕事や子育てがありました。なんとか自分の生活に戻りましたが、母親はしばらく一人では眠ることが出来ませんでした。そのことを再び思い出しました。私たちの人生に別離はつきものです。しかしみんなそれを乗り越えて明日を生きる。乗り越える過程に家族がおり、友人がおり、近隣の方々がいる。現在Sさんは週1回ではありますがデイサービスに行くことになりました。私は毎週デイサービスをのぞきに行きます。隣の席の方と喋りながら明るく笑うSさんを見てほっとします。一時でも寂しさを忘れ、笑うことが出来たら、また明日も生きていけるのではないかと思うからです。

そしてSさんが深い悲しみを背負っていることを理解し、見守ってくれているデイサービスは、本人や家族だけではなく、ケアマネジャーにとってもありがたい存在です。介護の現場は単なる入浴や日中の居場所だけのサービスだけではない。一人一人の生活や人生観に寄り添い、出来る限りの支援を考え提供する、その実践が介護の現場で行われていることを誇りに思っています。

寄り添うこと・・・(5)

A氏の支援にかかわって

 A氏は一昨年末に入院先の主治医から肝臓がんの末期で余命半年と告知をされました。早くに離婚して66歳のやもめ暮らしです。長男とは時々電話連絡を取っていましたが、ふだん顔を合わせることはありませんでした。お酒がやめられずアルコール性肝硬変から肝がんを発症しました。主治医の勧告を守れず、飲酒のため入退院を繰り返してきました。腹水が溜まるのを改善するため利尿剤を処方されているのですが、トイレに立つのが面倒なため、薬を飲まないことが続いていました。お腹はいつも臨月のように膨満しています。

 体力に余裕のあるうちは干渉をきらい、隔週の往診とヘルパー、訪問看護を週1回受け入れてもらうのがやっとの状態でした。入退院のたびにアパートと病室の訪問を繰り返し、ヘルパーの増回を説得してきました。夏を過ぎてから病状が進行し、体力の衰えが目立ってきました。秋には再び入院となり、主治医の提案を受け入れて腹水を体内で還流させるための手術を受けました。今まで手術は一切しないと言い続けてきた中で、初めて見せた気持ちの変化です。

 入院中に主治医、長男と相談の結果、ホスピスでの療養を決心されました。入院申込みのため長男が仕事を休んで手続きを行いました。本人の気持ちは揺れ続けます。間もなく転院という頃、ご本人から相談がありました。「最後は息子に看取られたい。息子がかけつけるまでは救命処置をしてほしい。」心の中にある家族への思いを感じました。ホスピスでは延命措置を行わないため、転院を取り消すことになりました。その後も気力で退院をし、アパートでの生活を再開します。体力の衰えに伴い、介護サービスを受け入れてくれるようになりましたが、再び体調が悪化し入院となりました。今回はトイレも一人でできなくなり、「情けない。」と言って、初めて涙をみせました。師走も終わる頃、2週間ぶりに病室を訪ねました。体重は元の半分になりましたが、食事もできるようになり、リハビリが始まりました。この1月には本人の希望でもう一度アパートにもどるための準備をすすめています。

 急変した場合に対応できるだろうかという不安もありますが、本人の自由に生活したいという思いを関係事業所の間で共有し、在宅生活の支援を継続していきます。同時に本人が頼りにしてきた長男の思いも尊重し、本人との援助関係を良好に維持していかなければと考えています。もう間もなくA氏の退院前カンファレンスです。

追悼のことば
退院前カンファレンスの前日、訃報を受けました。余命の告知を受けてから1年余り、入退院の繰り返しでした。信頼関係ができてきたように思う反面、本人の不安や孤独にどれだけ寄り添うことができたのか。援助を通じた人とのつながりが前向きに生きる支えになったことを願ってやみません。最後は長男に見送られ、穏やかに逝かれたと聞きました。心よりご冥福をお祈りします。

葵会総合ケアステーション
別所直幸

寄り添うこと・・・(4)

201312その日は突然きました。

86歳の母親と67歳の娘さんの2人暮らし。娘さんは52歳の時に脳梗塞で歩行障害と言語障害の後遺症を抱えてしまいました。
まだその頃70歳台で若かった母親(お母さん)は、ポータブルトイレを自分で使用できるように、オムツを使わず毎日毎日娘さんを叱咤激励しながら10年かけて5メートル程度の自力歩行とポータブルトイレが自立使用できるまでに回復し親子2人の穏やかな日々を過ごされていました。

H24年春、娘さんは脳梗塞で再入院、闘病生活がまた始まりました。
この頃のお母さんは85歳、腰痛や両膝関節痛で自宅内の歩行がやっと。とても娘さんの病室を訪ねたりする事が出来ませんので、主治医の先生から親族の方とケアマネジャーの私が病状をお聞きしました。主治医より「右手はリハビリで多少動くかも知れませんが両方の足で立つ事は無理でしょう」また「言語障害の回復も困難でしょう」との事でした。
今後退院して自宅で過ごす事が難しいと思われるお母さんに「今後は施設でリハビリしてもらいましょう」と説明し納得され入所する事になりました。自宅での生活はお母さんの負担が大きいのでもう無理ではないかと介護や医療スタッフは考えていました。
入所して10ヶ月経過した頃、お母さんより「娘を家に連れて帰る事は無理でしょうか!」と…また長年に渡り娘さんの歯の治療をされていたお医者さんより「このまま親子が一緒に暮らせないのは可哀想!最後にもう一度一緒に暮らせるようにするのは難しいですか!」と相談がありました。
「うーん困ったなー」と率直に私は思いました。その理由は、お母さんが倒れてしまうのでは…と考えたからです。3ヶ月間程かけてお母さんと介護の負担や自宅に帰る為に必要なサービス内容など話ました。お母さんとの面接で感じた事は、まだまだ迷いや不安が大きいと言うことでした。“もっと気持ちを楽にさせてあげなくては”と思い“自宅での生活が無理になったらその時には施設を利用しましょう”とお母さんの背中を押す中で、訪問時の話題は自宅に帰る為の相談に変わっていきました。
現在、娘さんとの生活を始められて4ヶ月程経過しています。話をする事の出来ない娘さんですが、お母さんの「○○ちゃん 部屋暑くないかー」「寒くないかー」「なに泣いてるんやー」「もううるさいなー大きな声で騒いでからー」 等と親子で喧嘩しながら過ごしておられます。
娘さんのいなかった頃の部屋は、ベットも無くガランとした殺風景なものでした。
今は、看護師さんやヘルパーさん、娘さんが大声で騒ぐ訪問入浴など…とても賑やかです。何より主を迎え入れる事ができたその部屋は、寒くなったこの季節なのに温かく微笑ましい風景に変わっています。お母さん、これからもご苦労もあるけれど喧嘩しながら頑張って!…良い年を迎えて下さいね。